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【連載 第5回】飛び立った「すかいらーく」。巨大企業への道と創業家の撤退、その後の横川四兄弟

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すかいらーくを創業した四兄弟の長兄・横川端氏(右)と、息子であり文教大学国際学部国際観光学科教授を務める横川潤氏(左)

■連載記事一覧
【連載 第1回】すかいらーく誕生前夜、激動の時代に生きた創業家四兄弟の戦前・戦後
【連載 第2回】すかいらーく前身「ことぶき食品」の隆盛と流通革命による淘汰の波
【連載 第3回】ことぶき食品の危機、米国視察で見えてきた「すかいらーく1号店」の原型
【連載 第4回】開業の鍵を握った必死のプレゼン。すかいらーく、府中市の麦畑からついに羽ばたく
【連載 第5回】飛び立った「すかいらーく」。巨大企業への道と創業家の撤退、その後の横川四兄弟

日本を代表する外食企業である「すかいらーく」は長野県出身の4人の兄弟、横川端、茅野亮、横川竟、横川紀夫の4氏によって創業された。前身の「ことぶき食品」の設立から、1970年のすかいらーく1号店の誕生まで、横川端氏を中心とした兄弟の知られざる苦労、足跡を追う。

『スカイラーク』開店は1970年7月7日(火)。戦後25年、日本万国博覧会が大阪の千里丘陵で開催されており、国中が繁栄を謳歌していた時期である。府中市の当日の天候は雨(午前9時)、最高気温21.4度、最低気温17.8度(東京管区気象台・府中観測所調べ)。終日涼しさを感じる1日だったようである。新規事業担当で店長の四男・横川紀夫氏は前日の6日から徹夜で最後の準備をして、その時を待った。

『スカイラーク』最初の客は3人組の女性、昼も夜も満席

開店は午前11時。女子大生のアルバイトが白い帽子に白手袋で駐車場の出入りを誘導する係となり、長男の横川端(ただし)氏は次男の茅野亮(たすく)氏とともに午前10時過ぎから、外から一番目立つテーブルに腰掛けて甲州街道を走る車の流れを見続けた。

しかし、皮肉にも最初の客は徒歩で店に入ってきた。近くの事業所に勤務する3人のOLで、手に財布を持ってしゃべりながら店に入り480円のランチを注文。その3人組を呼び水にするかのように客が入り始め、70席程度のテーブルが満席になる。端氏も慣れない手つきでトレーを持って接客した。「お盆を持っても、手が震えているんですから。汗びっしょりになって、すっ飛び歩いて。それでも『ありがとうございました』『あ、いらっしゃいませ』と、そうやって、大変な賑わいでランチタイムが終わるんです」(すかいらーくの遺伝子を探る:田口悟=聞き手)。

夜になっても客足は途切れない。自動車での客が入り満席となる。建設中の『スカイラーク』を自動車から眺めていた人が「何が出来るのだろう?」「完成したようなので、行ってみよう」という効果があったのではないかと、端氏は後日、語っている。

店舗の損益分岐点は1日あたりの売上が13万5000円と計算されていた。当時のレストランとしてはかなり厳しい数字であるが、初日は15万円を突破。これは天候が味方した側面もあるかもしれない。当時はエアコンが今ほど普及しておらず、日中の気温が30度を超えれば、昼ご飯は涼しい素麺や冷やし中華でと考える人も少なくなかったであろう。汗ばむような陽気であれば、少なくともランチに付いたホットコーヒーを飲みたいとは思わない。

また、午前9時に降っていた雨は開店時の午前11時には止んでいたようで、端氏も「最初のお客様が傘をさしていた記憶は全くありません」と言う。雨が続いていたら、最初の客を含む徒歩でやってきた客の何割かは「外に出るのはやめて、出前にしよう」などとなっていた可能性がある。雨が上がり、涼しく食欲が出る昼時と絶好の外食日和。七夕当日、外食の神様は、すかいらーくに微笑んだということであろう。

こうして、日本の外食産業の夜明けとも言うべき1970年7月7日は終わった。

その後のすかいらーく、発展と創業家の撤退

横川四兄弟にとって第二の創業である『スカイラーク』の滑り出しは上々のものであった。その後は20万円、25万円を記録する日もあれば8万円の日もあったが、月単位では売り上げが伸び続ける状態が3年ほど続いたという。

その間、国分寺、八王子、調布と三多摩地区に次々と店舗を拡大、チェーン店構想を駆け足で実現させていく。1号店オープンから5年後の1975年には100店舗を達成。1970年代から80年代にかけては外食産業を代表する会社、すかいらーく発展の歴史となる。また、多様なニーズに応えるために和食(藍屋)、中華(バーミヤン)、コーヒーショップ(ジョナサン)などにも事業を拡大。外食産業のリーディングカンパニーとしての地位を固めていく。

バブル崩壊後の1990年代は時代の波に合わせて低価格路線へと舵を切り、店舗としての『すかいらーく』は1992年から徐々に「ガスト」に変更されていった。2009年10月29日、川口新郷店を最後に店舗としての『すかいらーく』は消滅する。

その後、外食産業自体が頭打ちの状況となり、また、すかいらーくも組織の肥大化による問題点等が出てきたために2006年、創業家による株式買取(マネジメント・バイ・アウト)を実施して非上場化。2007年に三男の横川竟(きわむ)氏が社長となり再建を目指すが、2008年8月12日、臨時株主総会で解任が決議される。端氏、亮氏、紀夫氏も同月末で最高顧問を辞職。この時点で四兄弟は自らが築き上げた「すかいらーく」から完全に手を引くことになった。MBOを主導した金融機関、外資系ファンドによる創業家追放劇という見方をするメディアもある。

創業家が去ってから、米国の投資ファンド「ベインキャピタル」の関連会社が、全株式のおよそ20%を保有し筆頭株主になった(2017年11月に保有株を売却)。「ことぶき食品」の時代から多くの人の支援を受け、昭和の時代から横川四兄弟が夢をかけ育てた「すかいらーく」が、昨秋まで、外資系投資ファンドの傘下にあったことを知った時、多くの人は様々な事を感じるのではないだろうか。

MBOによる経営の再建には裏事情があったことはメディアでも報じられている。それは一度身を引いた創業者が、再び最高責任者として復帰することについて条件が付けられたというもの。期間は5年、その間の経営戦略と経営方針は創業者サイドに任せるという合意が金融機関との間でなされたのである。しかしそれは正式に文書で残していなかったこともあり、守られることはなかった。当時の社長であった竟氏は後年、「MBOを決めた時の約束では5年間社長を続けられるはずだった。だが、それを覆し、資本の論理に訴えてきた」(日経MJ2016年11月18日)と話している。

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松田 隆

ライター: 松田 隆

青山学院大学大学院法務研究科卒業。ジャーナリスト。スポーツ新聞社に29年余在籍後にフリーランスに。「GPS捜査に関する最高裁大法廷判決の影響」、「台東区のハラール認証取得支援と政教分離問題」等(弁護士ドットコム)のほか、月刊『Voice』(PHP研究所)など雑誌媒体でも執筆。ニュース&オピニオンサイト「令和電子瓦版」を主宰:https://reiwa-kawaraban.com/