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フレンチの重鎮『ル・マンジュ・トゥー』谷昇氏が語る「料理人として生きること」

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『ル・マンジュ・トゥー』オーナーシェフ・谷昇さん

11年連続ミシュランガイドの二ツ星を獲得する神楽坂のフレンチレストラン『ル・マンジュ・トゥー』。メニューは「シェフのおまかせコース(17,820円)」のみで、厳選された旬の素材を用いたコース料理がハレの日の料理として喜ばれている。オーナーシェフの谷昇さんは、18歳で料理の世界に入り、50年近くもフランス料理と向き合い続けているフランス料理界の重鎮だ。浮き沈みの激しい飲食業界で第一線を駆け抜けてきた谷昇さんに、料理人として生きるために大切なことをインタビューした。

思わぬきっかけで始まった料理人としての人生

谷さんは軽妙な語り口にリラックスした立ち振る舞いで、洒脱という言葉がぴったりの人である。話していて圧倒されるのがその知識量。フランス料理のことを聞くと、そのルーツを紐解き、中世ヨーロッパの話が展開される。

「フランス料理のスタートは1533年のこと。フランスのアンリ2世と、イタリア・フィレンツェの大富豪、カトリーヌ・ド・メディシスが結婚したときにスタートしました。カトリーヌは、当時のフランスの1年分の国家予算を持参金に、自国の文化をまるごとフランスに移植したんです。それこそ、城の造形や、家具、ガラスや銀製品、窓から見える庭のしつらえまで全部ですよ。髪を結う職人や料理人などの大勢の従者、家畜まで連れて行きました。それまでフランス料理はイタリアに大きく遅れをとっていましたが、メディチ家の給仕から調理技術やマナー、食器などが伝えられたことがきっかけで、予算をふんだんに使った豪華な料理を楽しむようになりました。だから古典的なフランス料理は華美なんです。1789年の7月14日にフランス革命が起こって貴族階級がなくなると、職を失った宮廷料理人たちが街に出ていきました。それが現在のフレンチレストランの始まりです」

谷さんの口からは、歴史は年号や人物名までスラスラとよどみなく出てくる。フランス料理という切り口から、ヨーロッパの地理や王制による影響、文化から建造物、音楽やアートまでどんどん話題が広がり、政治や原発問題にまでつながっていく。この幅広い知識量は、学生の頃に勉学に励んだ証なのだろうか?

「とんでもない。高校の時の成績は下から数えたほうが早かった(笑)。当時学生運動が盛んで、学校が休みになることが多かったので、仲間と麻雀ばかりしていました。高校3年になったある日、突然父に正座させられて、『お前は卒業後、どうするんだ』と聞かれたんです。元軍人の父はものすごく厳しく怖い存在。『何も考えていません』という答えはありえないわけです。そのとき麻雀仲間が『料理人になりたい』と言っていたことを思い出して、『料理人』という言葉がポロッと口から出てしまいました。もし友達が『大工』と言っていたら今頃大工をやっていたと思います(笑)。翌日父が専門学校の入学案内を持ってきました。調理師科が1年で栄養士科は2年で。同年代はだいたい大学に行っていますから、遊ぶ期間は長いほうが良いと思って、栄養士科に入学したんです」

当時、調理師と栄養士の違いをよく理解していなかったという谷さん。栄養士科は栄養学がメインであり、調理実習は少ない。想像と違った授業内容に、どんどんやる気を失っていったという。

「学校をやめようとしたら、今も親しくしていただいている先生が、『フランス人のアンドレ・パッションさんが六本木でスタッフを募集しているから紹介する。その代わり学校はやめるなよ』と諭されました。それで毎日授業が終わった後は店で働くことになったんです。一日15~16時間働きましたけど、自分のためですから全然辛くありません。そう考えると今の料理人は軟弱です。徹夜で麻雀もしましたよ。よく店の裏でムール貝を洗っていたんですけど、眠くなって、バケツに頭から突っ込んでビショ濡れになったりしましたね。休憩時間に1時間仮眠するつもりが爆睡して、あたりが真っ暗になっていることもあって。もうめちゃくちゃですが、楽しかった。それでもパッションさんに叱られたことは一度もなかったですね」

優しくおだやかなパッション氏は、折に触れてツールドフランスやF1のレースなど、フランスのカルチャーについて教えてくれた。その影響で、谷さんも漠然とフランスに憧れるようになったという。

『ル・マンジュ・トゥー』の店内

時代に対応できたものだけが生き残る

谷さんは学校卒業後も『イル・ド・フランス』で働き、24歳のとき、店からの研修生としてフランスに派遣された。しかし言葉が通じないもどかしさから挫折感を味わったという。結局、研修先として斡旋された店に行かず、旅に出ることにしたそうだ。

「あのときはパリの雰囲気に気圧されて、3日で帰ろうかなと思いました(笑)。ただ、奥さんからもお金をもらっていたし、帰る前に持ち金を全部使ってフランス中を見てまわろうと思ったんですね。それが良かったんです。『地方料理ってこんなにあるんだ』とわかったので。やはり、今いる立ち位置を確認するためには、過去にさかのぼってきちんと実証検証しないといけません。フランス人とは別のものを食べて育った日本人が、違う国の料理を作るのですから。フランス料理の食材や調理方法を知り、『なぜこういう形になったか』を理解していないと危険です。2年間旅をしながらいろいろ見て回りましたが、当時はインターネットもない時代ですから、すべてが物珍しかったです」

フランス全土を隈なく旅をして見識を広げた谷さんは、帰国後都内で腕を磨き、1989年に再び渡仏。アルザス地方の『クロコディル』などで研鑽を積んだ。日本へ帰ってから『オー・シザーブル』などを経て、1994年に『ル・マンジュ・トゥー』をオープン。料理を多角的な視点でとらえて、わかりやすく説明できる能力が重宝され、調理師専門学校の講師や、レシピ本の執筆、テレビ、雑誌と幅広く活躍している。しかし谷さんが大切にしているのは「あくまで料理」と話す。

「以前『カンテサンス』の岸田さんがこう話していたんですよ。『谷さん、我々はメディアにとっての生餌だよ。食べられたら終わる』ってね。一時期もてはやされたとしても、次が出てきたらワッと離れていきますよね。食われずに泳ぎ続けるためにはどうしたらいいか? 私の好きなダーウィンの言葉に、『強いものが、あるいは賢いものが生き残るわけではない。変化に対応できたものが生き残るのだ』という名言があります。自分の本領をしっかり守って、その時代時代に対応できる料理人になればいいと思います」

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三原明日香

ライター: 三原明日香

編集プロダクションに勤務し、フリーライターとして10年以上活動。ふとしたことから労働基準法に興味を持ち、4年間社労士の勉強に打ち込む。2014年に試験に合格し、20年4月に開業社労士として独立した。下町の居酒屋で出されるモツ煮込みが好物。