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事故であきらめた料理人の道を再び。繁盛店『アイノワール』に学ぶ常連客に愛される店づくり

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『アイノワール』店主の原賢一さんと妻のちえさん

新規客を獲得するためには、一般的に既存客の5倍のコストがかかる。これをマーケティング用語で「1対5の法則」という。新規客を獲得するためには、お店を知ってもらうための宣伝広告費がかかるため利幅は少ない。しかし、その人がお店のファンになり、定期的に通ってくれるようになれば売上に大きな差が生まれる。では、どのような工夫をすれば店のファンを育てることができるのだろうか。駅から離れた住宅街にありながら、行列のできる高円寺のレストラン『サンテカフェ アイノワール』の店主、原 賢一さんに話を伺った。

ベテランシェフの運命を変えた交通事故

『アイノワール』は、12坪18席という小規模な店ながら、1日最高205人が訪れたこともある。テレビで紹介されることも多く、放送日翌日は3軒先まで行列ができるほど人気だ。遠くからこの店を目指してやってくる新規客も多いが、地元を中心とした常連客も増えている。このお店を開くことになったきっかけを聞くと、意外な答えが返ってきた。

「私はもともと、プリンスホテルで15年、ヒルトンホテルで13年働いていたんですけれど、交通事故にあって脊髄を損傷し、両腕が動かなくなったんです。今でも月に1、2回は首に痛み止めのブロック注射を打っています。薬指と小指がしびれて力が入らないので、鍋を持ち上げるという動作ができません。だから、郊外で一人前ずつ丁寧に作った料理を出そうと思って、駅から離れた場所を選びました。私としては今でもリハビリ途中なのです」

「一人前ずつ、丁寧に作った料理を」との思いで、あえて駅から離れた住宅街に店を開いた原さん

2009年に事故にあってから1年半はうつ状態で、外にも出られなかったという原さん。しかし、全国からがん患者や後遺症のリハビリに励む人が集まる秋田の玉川温泉の話を聞き、行ってみることにしたという。

「玉川温泉に行ってみたら、体に手術痕の残っている人たちや余命宣告されている人がたくさんいました。彼らはみんな『生きる』ということに懸命なんです。その姿を見たら『俺は手がしびれているくらいで、死ぬわけでもないのに何をくよくよしているんだろう』という気持ちになれました。湯治に行ったときには箸も持てなかったんですけど、そこの名物の黒にんにくを食べているうちになんとなく指先が動くようになって、リハビリをしてみようかなという前向きな気持ちが芽生えました」

玉川温泉で出会った人の中には、「いろんなものを食べたけど、しっかり育てた野菜に塩だけ振って食べるのが一番美味しい」と言う人もいたそうだ。こうした出会いが、原さんの止まりかけていた時間を少しずつ動かしていった。

「それまで僕は、フレンチシェフとしていかに手を加えた一皿を仕上げるかということに重きを置いていましたが、本当に美味しいものはそうではないと気が付きました。手が以前のように動かなくても、1人分ずつ丁寧に料理する店ならできるかもしれない。東京に帰って1年半リハビリした後、北海道の農家を視察し、『しっかりした野菜を使ったレストランを作りたいから、店をオープンしたら協力してほしい』とお願いして回りました」

そんな原さんを支えるため、妻のちえさんも2012年に調理師免許を取得し、お店の経営をサポートしてきたという。

『アイノワール』の人気に火がついたきっかけとなった「ふわふわオムライス」

手がしびれて卵が巻けない。だからこそ生まれたふわふわオムレツ

『アイノワール』は、駅から離れた住宅街にあり、集客の点から見れば厳しい立地である。その分賃料は安く、手間ひまのかけた料理を良心的な値段で提供できた。店の周辺に私立の幼稚園から高校まであることもあり、地元の女性客を中心にファンが増えていった。人気に火がついたのはオープンから1年目のことである。

「お店を開いて1年弱のころ、『ぶらり途中下車の旅』という番組のオファーがきました。それまではテレビに映ると忙しくなるのがわかっていたので、地元のケーブルテレビも断っていたんですけど、放送日がちょうど1周年の日でしたし、プロデューサーが直々に話してくれたので、記念になるということで出ました」

そのとき放送されたのが、看板メニューの「ふわふわオムライス」(税込860円)。ミキサーで泡立てた卵を乗せたフォトジェニックな一品で、翌日からこのメニューをめがけて客が殺到するようになった。この一皿はどうして生まれたのだろうか。

「今は手がしびれるから、うまくフライパンを動かして卵を巻くことができないのですが、お客様に『どうして洋食屋さんなのに定番のオムライスがないの?』と聞かれて。じゃあ僕が作れるオムライスって何かなと考えました。フレンチシェフをしていたので、野菜の切れ端を煮込んでエキスをとる『べジブロス』が引き出しにあったのです。これでご飯を炊いてみたらやさしい味がしました。その味に合わせたオムレツはできないか考えていたところ、若いころにフランスのモンサンミッシェルで食べた、メレンゲ状のオムレツを思い出したのです。そこで卵をミキサーで泡立て、べジブロスのピラフに乗せることにしたんです。鉄板に乗せることで卵に少しずつ火が通っていき、食感の変化が楽しめます」

クリームをたっぷり塗ったケーキのような見た目は、テレビやSNSで評判となった。客がインスタグラムに『アイノワール』のオムライスを食べる動画を投稿したところ、1週間で15万回再生されたという。中国版ツイッターと言われる「ウェイボー」で有名人が投稿したのをきっかけに、中国から観光バスが来たこともあるそうだ。他にもプライベートジェットで遠くから来る人や、『テレビで見て食べに来ました』という人が北海道から沖縄県までいたというから驚きだ。

テレビやSNSを見た新規客がどんどん来て、時には2時間待ちになるほどの忙しさ。そんな中でも作り置きは一切せずに一つひとつ丁寧に料理した。常連への配慮も忘れず、「来店したい」という連絡があれば席を確保した。「レシピについて聞きたい」という人がいれば「今はバタバタしているけど夕方ならゆっくり話せるよ」と案内したり、できる限り見送りや挨拶をしたりすることも心掛けた。「せっかく来たのだからそれくらいはしたい。いたらないこともあるが、ホール担当の妻がいるおかげで助かっている」と原さん。テレビ放送直後は混雑するものの、1カ月半くらい経てば落ちつくので、そのタイミングを見計らって戻ってくる常連客も多いそうだ。

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三原明日香

ライター: 三原明日香

編集プロダクションに勤務し、フリーライターとして10年以上活動。ふとしたことから労働基準法に興味を持ち、4年間社労士の勉強に打ち込む。2014年に試験に合格し、20年4月に開業社労士として独立した。下町の居酒屋で出されるモツ煮込みが好物。