六本木『串かつ男/男おでん』、年商10分の1になって得た人生の平穏【連載:居酒屋の輪】
地元で成功を収め、東京でも店舗を増やした30代
高校や大学の在学中、アルバイトから始まった伊藤さんの飲食店での下積み時代。「いつか社長になりたい」と高い志を持ち、卒業後は居酒屋に就職した。和食やフレンチの店でも料理の技術を磨き、若手が集う居酒屋研究会などにも所属。28才の時、自己資金ゼロの状況から2,000万円弱を借り入れて地元の名古屋で起業する。
1999年、創業店である和食中心のオーソドックスな居酒屋はたちまち繁盛店に。おでん居酒屋やたこ焼き居酒屋といった独自路線の業態で立て続けにヒットを飛ばし、2003年、味噌おでん居酒屋『恵比寿だだ』で念願の東京進出を果たす。冬が主戦場のおでん屋にも関わらず3月にオープンしたことが災いし、最初の半年は大苦戦するも、9月ごろから売上が急上昇したという。
「恵比寿のお店は月商900万円ぐらいまでは売れたかな。とはいえ、夕方から朝7時まで営業していましたから。時間で言えば2店舗分を経営しているのと変わりません。深夜帯は同業者ばかりで、自分で言うのもなんですが『営業が終わってから飲みに行く店』として恵比寿の飲食店界隈では有名だったと思いますよ」
2006年には同じく味噌おでんを看板メニューとした『渋谷だだ』、そして今回の取材先である『串かつ男』をオープン。2007年、特に六本木は東京ミッドタウンや国立新美術館の開業で大いに盛り上がり、店の売上もたちまち軌道にのった。経営する店舗は名古屋と東京を合わせて8店舗にもなり、最盛期の年商は5億円を超えたという。
まるでドラマのようなサクセスストーリーではあるが、現実はそう甘くなかった。2008年9月15日、リーマン・ショックを契機に日本経済も冬の時代を迎えることとなる。
「経営が傾いたのは全て私の責任です」と伊藤さんは決して時代のせいにはしない。「第一の問題は営業時間が長かったこと」だと当時を振り返る。
「夕方から朝7時まで働いていたら、やはりスタッフが疲弊していきますよ。深夜帯のトラブルなど、私が対応できないケースも多かったです。それまで飲食店は長時間労働が当たり前だと思っていたのが大きな誤りでした。主要スタッフが突然いなくなるなど大きな失敗を経て、まず渋谷のお店を開業から2年で閉めたんです」
伊藤さんが東京に軸足を置いたことで、名古屋の店舗を管理しきれなくなったのも災いした。不採算店をリニューアルするなど起死回生を図るも、客足が回復することはなかった。
「そのころ、私は食の勉強という名目で毎日のように飲み歩いていました。反省することばかりです。経営状態が急降下し、借入金で首が回らなくなり、いわゆる自転車操業に陥りました。従業員を抱えていくことも難しく、もう、どん底の状態です」
運営していた名古屋の繁盛店『かなやまサルーン』を当時の店長に売り渡すなど、徐々に経営規模を縮小。経営状態の良かった『恵比寿だだ』も、大家が変わり家賃が倍になると言われ畳むことに決めた。それでも、家には育ち盛りの子どもが3人もいる。逃げ出すことはできなかった。
