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【連載 第4回】開業の鍵を握った必死のプレゼン。すかいらーく、府中市の麦畑からついに羽ばたく

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すかいらーくを創業した四兄弟の長兄・横川端氏

■連載記事一覧
【連載 第1回】すかいらーく誕生前夜、激動の時代に生きた創業家四兄弟の戦前・戦後
【連載 第2回】すかいらーく前身「ことぶき食品」の隆盛と流通革命による淘汰の波
【連載 第3回】ことぶき食品の危機、米国視察で見えてきた「すかいらーく1号店」の原型
【連載 第4回】開業の鍵を握った必死のプレゼン。すかいらーく、府中市の麦畑からついに羽ばたく
【連載 第5回】飛び立った「すかいらーく」。巨大企業への道と創業家の撤退、その後の横川四兄弟

日本を代表する外食企業である「すかいらーく」は長野県出身の4人の兄弟、横川端、茅野亮、横川竟、横川紀夫の4氏によって創業された。前身の「ことぶき食品」の設立から、1970年のすかいらーく1号店の誕生まで、横川端氏を中心とした兄弟の知られざる苦労、足跡を追う。

米国視察を終えた横川四兄弟は1969年の半ば頃に、翌1970年にコーヒーショップ型のレストランをオープンさせることを決めた。コンセプトは米国で見た駐車場のある、開放的な店。新規事業の担当者は四男の横川紀夫氏としたものの、準備期間は1年ほどしかない。三男の横川竟(きわむ)氏にことぶき食品の運営を任せ、長男の横川端(ただし)氏と次男の茅野亮(たすく)氏が中心になって、以下をオープンに向けて決定しなければならなかった。

(1)店舗の場所
(2)資金調達
(3)建物
(4)人とメニュー
(5)店名

必要資金は8000万円も自己資金は20%、次男・茅野亮氏が選んだ道

米国型の自動車で訪れて食事をするタイプのレストランということで、主要街道沿いは前提条件であった。また土地勘がある三多摩地区ということも合意しており、必然的に甲州街道(国道20号)、青梅街道(都道5号)などの主要幹線道路が候補に上がった。端氏と亮氏は仕入れ用のライトバンで不動産業者や売地を巡り、甲州街道沿の府中市と国立市の市境にある249坪(登記簿上は836.36平方メートル)の麦畑に目をつけた。府中市西府町5-16-1、現在のガスト国立店の場所である(後に隣接する土地も買収)。当時はまだ作物が植えられ、周辺には建物もあまりなく隣接する国立市の土地(大字谷保字一本松4149番地)は雑種地であった。

最寄駅は約790m離れたJR南武線・谷保駅。そこから歩いて麦畑だった場所にできたレストランに向かう客など全く期待できない。これまでの常識からすればレストランには適さない場所であるのは明らかだった。そこに50坪程度の建物と20台から25台収容可能な駐車場を造るには7000万円から8000万円が必要である。ところがことぶき食品の自己資金は2割程度しかない。そこで残りの一部は亮氏が養父に相談することになった。

亮氏は養子に行った先で農家を継ぐことを期待されていたにもかかわらず、東京に出て事業を始めることになった経緯がある。その時に母は「姉の家に養子に出した子が、その家業を継がないのは申し訳ない」と強く反対した。そうした事情から融資を頼むのは亮氏としても苦しい選択肢であっただろう。だが、他に方法はない。亮氏は長野へ向かった。

その時の状況を端氏は以下のように語っている。

「(亮氏の)親父さんという人は、寡黙な人でしてね、あんまりものを言わない人で、じっと聞いた上で『わかった』と言って、田んぼを売って、こっちに土地を買い替えてくれたんです」(すかいらーくの遺伝子を探る:田口悟=聞き手)。

2010年に他界した亮氏の当時の心の内は知るべくもないが、生前、取材に答えている。「最後の跳躍を食堂業でやってみようと決意したわけです。飛ぶのが恐くなかったか、というのですか。そりゃ恐い。恐かったけれど、人生何度か飛ばなければいけない場面があるのだと思います」(月刊食堂1979年8月号「私の社会人1年生時代」)。

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松田 隆

ライター: 松田 隆

青山学院大学大学院法務研究科卒業。ジャーナリスト。スポーツ新聞社に29年余在籍後にフリーランスに。「GPS捜査に関する最高裁大法廷判決の影響」、「台東区のハラール認証取得支援と政教分離問題」等(弁護士ドットコム)のほか、月刊『Voice』(PHP研究所)など雑誌媒体でも執筆。ニュース&オピニオンサイト「令和電子瓦版」を主宰:https://reiwa-kawaraban.com/