『もつ焼でん』おじさん集まる店で月商1100万円。内田克彦氏の「半永久的に繁盛する」店づくり
二度目の独立。『もつ焼 でん 水道橋店』誕生
“おじさん”が集まる店になるために工夫したのは、雰囲気づくり。落ち着いた雰囲気を乱す恐れのある客をあえて断ることも辞さなかったという。その努力は実り『もつ焼ウッチャン』は大繁盛した。しかし、またしても内田氏の頭を「独立」の二文字がよぎる。「社員であるため年収も決まっている、実質的に自分の店でもない」という思い。これは避けられない運命なのだろう。結局、内田氏は2011年に際コーポレーションを退職。中島氏からは退職することに対して最初は叱責を受けたものの、ついには「頑張れ」と送り出してくれたという。翌年、『もつ焼 でん 水道橋店』が誕生。山田氏もそのメンバーに加わっている。
基本的な串焼き、サイドメニューは『ウッチャン』時代と同じで、内田氏オリジナルの「酢豆腐」も引き続き提供している。じつは内田氏は『日本再生酒場』で働いていた頃から2年ほど、『自分の店』を作るまで“肉断ち”をしようと菜食主義の食生活を送っていたことがある。業務で味見をする際は別として、一切肉を摂取しない時期に唯一のタンパク源だったのが「酢豆腐」。山田氏が梅酢に浸し、鮮やかな紅色にした逸品としてメニューに加えたものだ。
内装もコの字型のカウンターは踏襲しながら、ウッチャンから進化させたところもある。商品の鮮度を際立たせるように蛍光灯を使用、店舗面積を広く見せるため両側の壁に鏡を設置した。内田氏は、この「カウンター」「蛍光灯」「壁の鏡」を「内装の基本三原則」と定義している。
『ウッチャン』時代と大きく異なる点は、接客にあるという。
「『ウッチャン』の頃は、美味いものさえ提供すればそれでOKと思っていました。雇われていた頃『お客さんから給料をいただいているんだから、笑顔でお迎えしましょう』と指導されて反発を覚えたこともあります。でも、今はお客さんを迎えた最初と、お帰りになる最後は、優しく接する。ダメなところがあったら『ごめんなさい』ということを普通にしようと思うし、スタッフにもそう指導しています。以前の自分はちょっと尖っていたのでしょうね」
ぶっきら棒でもなく、過剰な愛想も振りまかない。そうした適度なスタッフとの距離感が、居心地の良さを醸し出しているのかもしれない。おじさんたちのオアシスとなった『もつ焼き でん』は水道橋店に加え、中目黒店、西小山店、蒲田店、戸越銀座店、アメ横店、佐渡金井店の合計7店舗へと拡大した。